ベートーヴェンは5つのチェロソナタを作曲しています。
バッハの無伴奏チェロ組曲が「旧約聖書」と例えられるなら、ベートーヴェンのこのチェロ・ソナタは「新約聖書」と言われるほど、重要な作品とされています。
ご存じの方も多いと思いますが、ベートーヴェンの作品は【初期】【中期】【後期】に分けられており、チェロソナタは以下のように、それぞれ異なる時期に作曲されています。
【初期】チェロソナタ第1番、第2番
【中期】チェロソナタ第3番
【後期】チェロソナタ第4番、第5番
この記事の前半ではチェロソナタの簡単な解説を、後半ではおすすめの名盤をご紹介します。
【解説】ベートーヴェン チェロ・ソナタ
チェロソナタ第1番 ヘ長調 作品5-1
作曲された年:(1796年)
ウィーンでの名声を高めつつあり、彼の作曲活動が活発になった時期に作曲されました。
めずらしく演奏旅行をしていたベートーヴェンは、最後の目的地として、ベルリンに滞在していました。そしてそこのプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世のために作曲したのが、チェロソナタの1番と2番。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、自らもチェロを演奏する大の音楽好きでした。王の前で、ベートーヴェン自身によるピアノと、プロイセン宮廷の首席チェリストのジャン=ルイ・デュポールで初演しています。
作品の特徴
ベートーヴェンの若い時期の作品で、ロマンティックで躍動感があります。
第1楽章のアダージョ・ソステヌート – アレグロはゆったりとした導入部分で始まり、チェロとピアノが対話を始めるように、優雅で静かな雰囲気を作ります。後半で徐々に盛り上がり、そのままアレグロになります。いかにもベートーヴェンらしい、軽快でテンポの良いピアノから始まり、エネルギッシュで明るい音楽が続きます。
第2楽章では、ロンド形式でテーマが繰り返されながら展開していきます。軽快で陽気な楽章です。
チェロソナタ第2番 ト短調 作品5-2
作曲された年:(1796年)
第1番と同じく、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈するために作曲されました。ベートーヴェンは同時期にチェロとピアノの作品として、「ヘンデルの『見よ勇者は帰る』の主題による12の変奏曲 ト長調 WoO45」や「モーツァルトの≪魔的≫から『娘か女か』の主題による12の変奏曲 ヘ長調 Op.66」も作曲していて、チェロソナタと同じレコーディングアルバムに収められていることも多いです。
作品の特徴
第1楽章のアダージョ・ソステヌート・エ・エクスプレッシーヴォは、深い感情を表現するようなゆっくりとした導入部で、暗くて悲しげな雰囲気があります。速くて力強いアレグロ・モルト・ピウ・トスト・プレストに移行すると、チェロの力強い旋律でドラマチックな展開が続きます。
第2楽章はロンド形式のアレグロで、第1楽章とはうってかわって、明るく軽快で、リズミカルな雰囲気に。ピアノが目立つ部分も多いのは、王様の前で初演を行った際にピアノを弾いていたベートーヴェン自身が目立つためかもしれません。
チェロソナタ第3番 イ長調 作品69
作曲された年:(1808年)
交響曲第5番「運命」や第6番「田園」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」などの傑作を生み出したのと同時期、いわゆる『傑作の森』の、室内楽を代表する作品で、彼の作曲技法が成熟していることが特徴です。
作品の特徴
このソナタは、ベートーヴェンがチェロとピアノのデュオにおいて対等な役割を持たせ、各楽器の特性を最大限に活かした傑作とされています。
第1楽章のアレグロ・マ・ノン・トロッポは、穏やかながらも力強い、メロディックで叙情的なテーマが印象的です。主題の提示、展開、再現というソナタ形式に従いながら、チェロとピアノが交互に主旋律と伴奏を分かち合います。
第2楽章のスケルツォ (アレグロ・モルト)は活発でリズミカルな楽章。チェロとピアノが躍動感のある音楽を交互に奏でます。
第3楽章はゆっくりとしたアダージョ・カンタービレから始まり、チェロが歌うように旋律を奏でます。続いて、速いテンポのアレグロ・ヴィヴァーチェが始まり、華やかでエネルギッシュなフィナーレへと展開します。チェロとピアノの技巧が光る、非常に活気に満ちた楽章です。
チェロソナタ第4番 ハ長調 作品102-1
作曲された年:(1815年)
ベートーヴェンのスランプ期と言われる時期の作品です。ウィーンでの名声は高まっていくばかりでしたが、パトロンからの支援が滞りがちになったり、聴力の問題で周囲とのコミュニケーションが難しくなり、演奏活動が減少したりと、私生活においても難しい時期でした。
作品の特徴
第1楽章は、静かで瞑想的なアンダンテの序奏で始まります。徐々に緊張感を高めていきながら、急激にテンポが速まり、アレグロ・ヴィヴァーチェの部分に移行し、チェロとピアノのエネルギッシュな対話が繰り広げられます。
第2楽章のアダージョも非常に抒情的で感情豊かなゆったりとした雰囲気で始まりますが、こちらは第1楽章よりも、より深い悲しみや孤独、内省的な感情が表現されています。アレグロ・ヴィヴァーチェの部分に突入すると、リズミカルで活気に満ちた音楽が展開され、全体として高揚感を持って締めくくられます。
チェロソナタ第5番 ニ長調 作品102-2
作曲された年:(1815年)
第4番と立て続けに作曲されました。この2曲の作曲時期は、ベートーヴェンの創作活動が後期作品への移行を始めた時期でもあります。彼の音楽はますます深く内省的になり、新しい形式や構造を探求するようになりました。
作品の特徴
第1楽章のアレグロ・コン・ブリオは、ドラマチックで力強く、チェロとピアノが互いに呼応しながらエネルギッシュな音楽を奏でます。全体的に明るくて活発な雰囲気です。
第2楽章アダージョ・コン・モルト・センティメント・ダッフォは、非常にゆったりとしたテンポで始まり、深い感情を込めた旋律がチェロによって奏でられます。
第3楽章のフーガはベートーヴェンの対位法技術の頂点を示すものであり、音楽的にも技術的にも非常に高度で、ベートーヴェンの緻密な作曲技法が光る作品です。リズミカルなアレグロで始まり、終始華やかな雰囲気です。
ベートーヴェン チェロ・ソナタのおすすめ名盤5選
以下の録音は、CDの他に、Apple MusicとAmazon Music Unlimitedのストリーミング音源のリンクも貼っています。いずれかのサブスクに加入している場合、各リンクから該当の音源に移動できます。
【チェロ】ピエール・フルニエ【ピアノ】フリードリヒ・グルダ(1959年録音)
試聴はこちら
――演奏者紹介――
- ピエール・フルニエ(1906-1986): フランス出身の20世紀を代表するチェリスト。「チェロの貴公子」と称され、洗練された音楽性と、上品で繊細な表現力が特徴。
- フリードリヒ・グルダ(1930-2000): オーストリア出身のピアニスト。20世紀を代表するピアニストで、得意としていたのはモーツァルトやベートーヴェン。1970年代にジャズへの転向を試みる。だが周囲の反対により、クラシックとジャズを両立、また融合して活動していた。
どんな演奏?
フルニエとグルダという2人の巨匠が共演した歴史的な名盤です。
この2人の演奏を聴いて抱いた印象は、良い意味で淡々とした演奏であるということ。
演奏者によってはうねるように激しく演奏する方もいて、それはそれで魅力的だけれども、時に圧倒されすぎてしまうことも。
フルニエ&グルダの演奏は、聴く側のコンディションがどんな時でも、心地よく耳に響き、それでいて決して退屈ではない。「ベートーヴェンの作品」を純粋に楽しむことができる。
ベートーヴェンのチェロソナタを初めて聞く人にもおすすめの、間違いのない名盤です。
【チェロ】ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ【ピアノ】スヴィヤトスラフ・リヒテル(1961年-1963年録音)
録音時期:1961年7月(第3番)、1962年6月4-9日(第2番、第4番)、1963年5月25-31日(第1番、第5番)
――演奏者紹介――
- ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007): ウクライナ(旧ソ連)出身の20世紀後半を代表するチェリスト。豊かな表現力と圧倒的な技術で知られる。ハチャトゥリアンやバーンスタインなど名だたる作曲家たちから曲を捧げられている。ショスタコーヴィチ、プロコフィエフから作曲を学ぶ。晩年は指揮者としても活動。
- スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997): アゼルバイジャン(旧ソ連)出身のピアニスト。20世紀最高のピアニストの一人と称された。豊かな音色と、弱音から強音まで自在に操るダイナミクスの大きさで知られる。全盛期が冷戦時代であったため、西側諸国への演奏旅行の当局の許可がなかなか下りなかった。それでも評判が伝わり「幻のピアニスト」と呼ばれる。非常に繊細な性格であった。
どんな演奏?
ともに20世紀を代表する巨匠による、歴史的な名盤です。
ピアニストのリヒテルは当時のソ連、今でいうウクライナの出身。
ドイツ人ピアニストであった父親は、1941年、リヒテルが26歳の時にソ連政府からスパイの嫌疑を掛けられて処刑されています。
リヒテル自身は28歳の時にプロコフィエフのピアノソナタ7番を初演し成功するなど、ソ連国内で順調に活動し、名声を得ていきますが、冷戦の影響で西側への演奏旅行は当局の許可が下りません。
ようやく西側での演奏が許されたのが1960年5月のこと。つまり、今回紹介しているレコーディングの約1年前です。
もともとの性格に上記のような生い立ちが影響しているのか、リヒテルは非常に繊細な性格だったそうです。
リヒテルの演奏自体も、そんな性格が反映されているようであり、豪快な音、というよりは細かなところまで神経の行き届いた、柔らかい音だなと感じました。
とはいえ、決して弱々しい演奏ではありません。
力強く、豊かな音色のロストロポーヴィチのチェロと、弱音から強音まで綿密なタッチで奏でるリヒテルのピアノが見事に調和した、非常に聴きごたえのあるレコーディングです。
【チェロ】ジャクリーヌ・デュ・プレ【ピアノ】ダニエル・バレンボイム(1970年録音)
――演奏者紹介――
- ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945-1987): イギリス出身のチェリスト。16歳の時にエルガーのチェロ協奏曲でデビュー。22歳の時にダニエル・バレンボイムと結婚。夫とともに世界中で活躍するも、多発性硬化症という難病のため、28歳で引退。病気の進行により、42歳で亡くなった。活動期間はわずか10年ほどながら、その卓越した技術と情熱的な演奏は今なお多くの人に影響を与え続けている。
- ダニエル・バレンボイム(1942‐): アルゼンチン出身のピアニスト、指揮者。わずか7歳でピアニストとして演奏会デビューし、10歳でヨーロッパデビューも果たす。11歳の時に、長年ベルリンフィルの常任指揮者を務めたヴィルヘルム・フルトヴェングラーから”天才”と称される。現代クラシック界における巨匠。
どんな演奏?
1970年にエディンバラ国際フェスティバルで夫婦共演した際のライブ録音です。
デュ・プレといえば、エルガーのチェロ協奏曲が有名で、悲愴感に満ちた、情熱的な演奏が高く評価され、名声を世界に知らしめることとなりました。
このベートーヴェンのレコーディングにおいても、チェロがとても感情豊かで、特に後期の作品である第4番、5番は、ベートーヴェンの内面的な苦悩と希望を鮮やかに表現しています。
【チェロ】スティーヴン・イッサーリス【ピアノ】ロバート・レヴィン(2012年12月録音)
――演奏者紹介――
- スティーヴン・イッサーリス(1958‐): イギリス出身のチェリスト。現代を代表するチェリストのひとり。ガット弦を使用した個性的な音色が有名。1998年に大英帝国勲章を授与されている。
- ロバート・レヴィン(1947‐): アメリカ出身のピアニスト。フォルテピアノやチェンバロなどのピリオド楽器の名手として有名。さらにはモーツァルト研究の第一人者としても知られ、作曲家の時代様式に沿った即興演奏を得意とする。
どんな演奏?
現代を代表するチェリストのひとり、イッサーリスが使用するのは、1726年製のストラディヴァリウス「マルキ・ド・コルブロン」にガット弦を張ったチェロ。
現代主流なのはスチール弦、もしくはナイロン弦ですが、20世紀より前の時代は、ガット弦が主流でした。
ガット弦とは、羊の腸を寄り合わせて作られたもの。
「ベルベットのような音色」とも表現されるような、柔らかくて暖かい音色が特徴で、倍音が響きやすく、特に中低音域で深くて豊かな音色を奏でます。
そんなチェロに合わせるのは、1805年頃の「ワルター&サン」を複製したフォルテピアノ。ベートーヴェンが生きていた時代に使われていたピアノと同じ型です。
特にチェロソナタ第3番では、この歴史的な楽器で奏でられるイッサーリスの力強く情熱的なチェロと、レヴィンの知的で明瞭なピアノが完璧なまでに調和していて、ベートーヴェンの音楽を生き生きとしたものにしてくれています。
【チェロ】ジャン=ギアン・ケラス【ピアノ】アレクサンドル・メルニコフ(2013年10月&12月録音)
――演奏者紹介――
- ジャン=ギアン・ケラス(1967-):カナダ出身のチェリスト。現代を代表するチェリストのひとり。2002年には、傑出して有望な若手芸術家に対して贈られるグレン・グールド・プロテジェ賞を受賞。フライブルク音楽大学教授。
- アレクサンドル・メルニコフ(1973-): ロシア出身のピアニスト。モスクワ音楽院にてレフ・ナウモフに、さらにはスヴャトスラフ・リヒテルなどの巨匠に師事。ロベルト・シューマン国際コンクールやエリザベート王妃国際音楽コンクールで入賞。2010年には、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集の録音がドイツのエコー・クラシック賞とグラモフォン賞を受賞。グラミー賞にもノミネートされた。
どんな演奏?
ここまでに紹介したどの録音よりも、軽やかで透明感のある音色が特徴の一枚。抱えるほど大きな楽器で弾いているとは思えないほど、スマートな音色がします。
メルニコフのピアノも、力強いタッチながらも柔らかさがあり、ケラスの奏でるチェロの音色とみごとに溶け込んでいます。
録音が非常に高音質で、音色の細部までクリアに聴き取れ、演奏の細かなニュアンスまで楽しめるのも嬉しいポイントです。